2013-03-15 第183回国会 衆議院 内閣委員会 第3号
ところが、当時のマッカーサー総司令部の内部対立もあって、その部分を人事院に移管する、中立的な機関をつくって、そこで公務員の給与算定をするという形にしたというふうに言われていまして、カルピンスキーは、日本を離れるときに、そこのところが残念だったと言い残して去ったと言われています。 ぜひこれを早急にお願いしたいと思っております。
ところが、当時のマッカーサー総司令部の内部対立もあって、その部分を人事院に移管する、中立的な機関をつくって、そこで公務員の給与算定をするという形にしたというふうに言われていまして、カルピンスキーは、日本を離れるときに、そこのところが残念だったと言い残して去ったと言われています。 ぜひこれを早急にお願いしたいと思っております。
私は、マッカーサー総司令部が日本の天皇をイギリスの天皇を頭に置いて改正しようと考えた、こう伝えておられるし、それが本当じゃないかな、こう思っているわけであります。しかし、ヘッド・オブ・ステート、元首と書くことをスタッフに求めたのに対して、それじゃ明治憲法と同じように受け取られるからということで、今の象徴の言葉が出てきたと。
ちなみに、現行憲法、マッカーサー総司令部から三原則が提示されたのが昭和二十一年の二月ですね。そして、それをもとにしていろいろ議論をして、政府案として国会に出されたのがその年の六月の二十日でありまして、衆議院を通過したのが八月の二十四日であります。そして、貴族院で修正、成立したのが二十一年の十月の七日。
私の両親は戦争中、軽井沢にいましたので、私はマッカーサー総司令部の仕事を始める前に軽井沢へ行きました。食料不足と燃料不足で苦労した両親は、私に戦争中の様子を教えてくれました。また心が痛かったです。二日間滞在の後は、私は東京へ帰ってマッカーサー総司令部の民政局に入って仕事を始めました。 私の最初の仕事は、女性政治運動そして小さい政党の運動のリサーチでした。
これはいきさつについてはあるいはもう皆さん御存じと思いますので詳しく申し上げませんけれども、二月十三日に、マッカーサー総司令部案、マッカーサー案が日本側に提出されました。受け取ったのは、御存じのように松本国務大臣と吉田外務大臣であります。驚きました。
なぜ違法かといいますと、まず極東委員会の行為、それからマッカーサー総司令部の行為は、ハーグの陸戦法規に四十三条というのがありますが、レジュメの八ページの上の方に置いておりますが、これに違反する、こういうことです。 これは皆さん方のところに資料が配られているはずなんですが、ハーグの陸戦法規四十三条、ここで、占領者はその占領地の現行法でやれ、このようになっているんですね。
また、マッカーサー総司令部司令官は、昭和二十四年の年頭にメッセージを出しまして、国旗の掲揚の制限を撤廃すると言っております。 今ちょっとお耳に入れたいと思うのは、まず第一に、マッカーサー元帥の書簡であります。これは一九四七年五月二日でございますから、新しい憲法が施行される前の日に日本人に向けて出された書簡であります。
そうすると、大臣にお尋ねしたいのは、亡くなられた裕仁天皇は、一九四五年にマッカーサー総司令部に足を運んで、今までの戦争の反省という意味も多分に含まれておったのではないかと思いますが、私は神さんじゃありません、人間ですと、人間宣言をなさったわけであります。ところが問題は、近く予定をされておる大嘗祭、これは天皇になられて初めての、昔でいう新嘗祭ですね。
翌日、マッカーサー総司令部からストの中止勧告が行われております。六月の三十日は、福島県の平警察署が占拠されておる、いわゆる平事件が発生いたしております。七月一日、問題の第一次人員整理基準、九万五千人が発表されたわけです。その四日後の七月五日に、初代国鉄総裁下山事件が発生いたしております。
○政府委員(小熊鐵雄君) まず、もとの特別調達庁の通算でございますが、これは、先生御承知のように、マッカーサー総司令部の指令に基づきましてできたわけでございます。そのできたときの職員構成を見ますと、総理庁の事務官それから一般職員、それがミックスした形でできておったわけでございます。その後、調達庁は昭和二十四年の六月になりまして政府に移管になったわけでございます。
この点につきまして、ちょっと時間がございませんが一言申しますと、昭和二十一年のマッカーサー総司令部の当時、最初に御承知のように、総司令部からわが憲法のモデルとされた案がわがほうに提出されたのでございますが、このいわゆるマッカーサー草案においては、現行憲法八十一条に相当する規定のところでは、かなりこの点の配慮がございました。
(拍手) なお、昭和二十五年当時の国会で再編成問題をめぐって非常に紛糾し、ついに業を煮やしてマッカーサー総司令部のポツダム勅令が出たのでありますが、その昭和二十五年の国会において、いまの福田通産大臣は、当時の松永案、すなわち九分割案反対の急先鋒として大いに活躍せられたことは、私ども関係者は、それから十余年たっておるけれども、決してまだ忘れてはおらないのであります。
しかしながら、その後マッカーサー司令部から、これらの人々は容疑者として詳細に調べたけれども、何ら犯行の証跡がないからしてこれは解除するものであるということを、マッカーサー総司令部の公文によって発表されて、私は自由の身となったのでございます。
○説明員(小野哲君) お答え申上げますが、これは先程も申上げましたように、マッカーサー総司令部に対する勧告でございますので、マッカーサー総司令部と政府の間の今後における折衝の結果に基いて政府としては善処いたして参りたい。従つて今日、只今の状態におきましては次の臨時国会若しくは通常国会に出すということはまだ言明する段階に至つておらんわけであります。